2019年秋の東京六大学リーグ、秋の早慶戦は1回戦、7対1で慶應義塾大学が勝利し優勝を決めた。2戦目は実に91年ぶりとなる慶應の10戦全勝優勝がかかっていたが、早稲田大学が6対4で勝利。3戦目も9回2死からの逆転劇で4対3、早稲田が勝って勝ち点を挙げた…。この結果について皆さんはどのような感想をお持ちだろうか? 慶應優勝おめでとう、早稲田は意地見せた大健闘だ、否々、一番多いのは「早慶戦やっていたんだ」という人なのではないか。

春と夏の甲子園大会がテレビでほぼ完全生中継されることについて「高校野球だけ特別扱いされていて不公平だ」という声を聞くことがある。主催新聞社系列の民放がスポンサーを取ってきてコンテンツ不足気味のBSで中継するのはともかく、公共放送が高校生のそれも男子の硬式野球だけ、1回戦から決勝までもれなく地上波で朝から晩まで流し続けるというのは、たしかに不公平といえば不公平。不満の声が上がるのはもっとなことだ。ただそのような声が上がるのは、それだけ甲子園大会の視聴者が多く、関心が高いということでもある。

学生野球には公共放送の地上波が定期的に生中継する試合がもう一つある。それが早慶戦だ。毎年、春と秋に六大学リーグの順位争いと関係なく早慶戦だけ生中継される。大抵は最大3試合あるうちの1試合だけ、しかも週末の昼下がりに申し訳程度にやるだけだから、なんで早慶戦だけなんだ、なんで関東の、東京の、それも六大学だけなんだと、不満の声が上がることはまずない。冒頭にも書いたが一般的な感覚でいえば「早慶戦やっていたんだ」くらいのもの、もっといえばソーケーセンなど知らないという人もいても全然おかしくない。はっきりいってただの学生野球の一試合に過ぎない。ではそんな試合をなんで皆様の公共放送が生中継するのだろうか?

ライバルとして何かと比較されることが多い早稲田大学と慶応義塾大学。両校のライバル関係は有名だが、その起源は早慶戦にある。歴史を紐解いてみると、早慶戦がいかに大学間の定期対抗戦の枠を超えた特別な存在であるか(あったか)が見えてくる。

初の早慶戦が行われたのは1903年のこと。創部2年目の早稲田野球部が、すでに20年近い歴史を持っていた慶応野球部に「挑戦状」を送りつけたことがきっかけだった。それから毎年、定期的な対抗戦が行われることになった。この頃は明治の文明開化により伝来した西洋スポーツが日本に根付いた時期で、なかでも野球人気が高まりつつあった。西洋スポーツを「輸入」した日本においてはまず学生の間でスポーツが普及したため、スポーツは学生の課外活動であり教育の一環であると同時に、プロスポーツのない当時、エンタテイメントスポーツの役割も担わされた。そんな世相とマッチし早慶戦はたちまち人気を博すようになる。

しかし開始から3年後の1906年に事件が起きる。秋の早慶戦1回戦、早稲田の戸塚球場に慶應が250人の応援団とともに乗り込み勝利すると、慶應応援団が「大隈伯顔色ありや」と大ハシャギし早大正門前で万歳三唱を繰り返した。これに対し早稲田は2回戦、慶大三田綱町グラウンドに1200人の大応援団を動員。勝利すると三田の商店街を応援歌を歌い練り歩き、福沢邸前で万歳を叫んだ。そして勝負が決まる3回戦。早稲田が1万人を動員し、応援団員がヘルメットを被り馬上から応援を指揮する計画をたてると、慶應は試合当日の早朝から3500人で観客席占拠し、応援団が柔道着を着込んで乱闘に備えた。暴動に発展しかねない事態に両校当局は大慌て。慶応側が中止を申し入れ、早稲田もこれを受け入れる。以後、早慶戦は東京六大学リーグの総当たりが実施される1925年秋まで19年の空白期を作ることになった。

再開後、1933年には「リンゴ事件」が起きる。秋の3回戦、早稲田1点リードの9回表、慶應の三塁手、水原茂が観客席から投げ込まれたリンゴの芯を球場の塀に向けて放り投げ「片付け」ると、早稲田応援団が「ゴミを投げ返した」と激怒。さらに9回裏に慶応がサヨナラ勝ちしたこともあって試合終了後に大暴れ。謝罪を求めて慶応ベンチ、応援席になだれ込み、慶応もこれに応戦し警官隊が出動する大騒ぎになった。両校ともに責任は相手側にあると譲らなかったが、騒ぎの中で塾長から授けられる慶応応援団の指揮棒の行方がわからなくなったこともあり、早稲田の野球部長が辞任し幕引き。この事件をきっかけに、早慶戦のベンチ、応援席は現在でも応援席は慶応が三塁側、早稲田が一塁側に固定されているのは、この事件がきっかけだ。

戦時下の1943年、東京六大学リーグは解散し、10月16日には「最後の早慶戦」とも称される出陣学徒壮行早慶戦が行われた。再びの空白期間を経て、戦後1946年に東京六大学リーグが再開すると、1956年まで11年間22シーズン、早慶両校で17回の優勝を占め、黄金期を形成。東京六大学リーグはプロ野球をしのぐ人気を博した。1960年には定期戦3試合の後、日没引き分け2試合を含む優勝決定戦3試合が行われた早慶6連戦があり、この頃が早慶戦人気のピークだった。以後、プロ野球人気が盛り上がり、エンタテイメントスポーツも多様化し、早慶戦はただの学生野球の一試合に過ぎなくなった。

しかし戦後のある時期まではプロ野球を上回っており早慶戦は甲子園大会同様の国民的関心事だった。野球界では唯一の天皇杯が早慶戦を発祥とする東京六大学リーグの優勝校に下賜されるのも、そして今や大して見る人もいない(?)早慶戦を公共放送が全国生中継するのも、その名残というわけである。

(「屁理屈野球雑記」石川哲也)