夏は野球の季節だ。これほど野球をプレーするのに適さない時期はないと思われるのだが、学校が休みになるためか小学校から中学、高校と公式、軟式、各カテゴリーで全国大会が開催され、社会人も都市対抗野球が行われる。プロ野球はちょうど夏休みに入るころ前半戦と後半戦の区切りとなる、オールスターゲームだ。メジャーリーグでは「Midsummer Classic」(真夏の球宴)と称されるオールスターゲームもまた夏の野球の象徴だろう。

今回、ご紹介するのは1990年に横浜スタジアムで行われたオールスターゲーム第1戦の半券。いわゆる「ぴあ券」ではなく、球場発券の「デザインチケット」だ。 大きさはシーズンのチケットと比べるとやや大きめ。右上に88年より冠スポンサーとなったサンヨーのロゴが入り、セとパのヘルメットが並ぶ。「オールスター」の「タ」に星が入ってるのは今、見ると時代を感じさせるセンスではある。

今やオールスターのチケットはネット販売で売り切れて超満員というのが普通で、そもそも当日券が出ないので球場発券のチケットを手にする機会はほぼないだろう。だが、ネットがなかった当時は窓口での先行販売が売り切れても、一定枚数当日券が出ていた。

中学1年生の私はそのチケットを求めて、部活と塾の夏期講習をサボり、始発電車で横浜スタジアムへと向かい、プレイボールの約12時間前の午前6時から列に並んで、このチケットを手にしたのだった。今年のオールスターは2試合とも超満員ではあったが、当時のオールスターは今とは異質な人気、価値観があり、それだけのことをしてでも「あの」オールスターのチケットが手に入るならトライするのは、野球好きなら当然のことだった。

実際に夏休みが終わってから友人に会うと、「オレも一番電車で行った」というヤツらが何人もいた。ただ彼等とは顔をあわせることはなかった。連中がライト側のセ・リーグに並んでいたのに対して、私はレフト側のパ・リーグに並んでいたから。これは単に私が当時からへそ曲がりで? パ・リーグを贔屓にしていたからだが、当時、パとセは格段の人気差があり、大人気のオールスターのチケットを並んで手に入れるということなら賢明な選択といえた(苦笑)。

オールスターゲーム第1戦 1990年7月24日 27431人
パ 000 520 000… 7
セ 000 000 000… 0

パ : ○阿波野(近)、渡辺久(西)、郭(西)、山沖(オ)、野茂(近)、白武(ロ)-伊東(西)、田村(日)
セ : 野村弘(洋)、●斎藤雅(巨)、木田(巨)、佐々岡(広)、遠藤(洋)-山倉(巨)、中村(中)、古田(ヤ)
本: ブライアント(近)1号(斎藤雅)、清原(西)1号(木田)

ゲームはセの2番手、巨人の絶対的エース、斎藤雅がブライアントのホームランをはじめ1死もとれず5失点、さらに3番手の木田も清原に2ランを打たれるなど、前年日本一の巨人投手陣が打ち込まれ、代打で出てきて打点をあげたオリックスの門田を含めパを代表する強打者が活躍する、パのファンとしては実に愉快痛快な展開だった。パを率いていたのが前年優勝の近鉄・仰木監督だったこともあり、平和台で行われる翌日の第2戦で先発予定のルーキー、ファン投票選出の野茂が9回に登板。セの4番、中日の落合がレフト戦にツーベースを打ったのは今も記憶に残っている。

1990年のオールスターというのはそれまでのパなら東尾修、山田久志、福本豊、村田兆治、セなら山本浩二、衣笠祥雄、若松勉、谷沢健一、掛布雅之あたりの常連が引退や衰えにより出場しない入れ替わりの時期にあった。それでもスコアに記された名前に加えパは秋山幸二、大石第二朗、石嶺和彦、田中幸雄、門田博光、石毛宏典、松永浩美、野茂英雄、セは池山隆寛、原辰徳、落合博満、広沢克己、クロマティ、遠藤一彦等々、そうそうたるメンバーが出場している。この年からファン投票にマークシートが導入された。なかには「?」な選手も選ばれており、オールかどうかは微妙なところだが、スター勢揃いなのは間違いない。

翻って昨今のオールスターはどうだろう。確かにスターは揃ってはいるが、どうにも小粒に思えてしまう。いつのまにか出場選手が自分より年下になって重厚感がなくなっただけなのだろうか?

(「プロ野球半券ノスタルジア」石川哲也 )