世の中には野球の観戦チケットの半券を持ち帰る人間と、持ち帰らない人間の2種類がいる。私は前者だ。自分の体感したゲームを何かしら形あるものにして残しておきたいと思っている。「乗り鉄」の皆さんは、自分の乗った路線や列車の切符を、下車駅で無効印を貰ってまでも手元に置いておきたいというが、その感覚に近いかもしれない。

そんなこともあって小学生の時から集めたというか、結果的にたまった半券はそれなりの数になった。プロ、高校、大学、社会人の各レベル、日本だけでなくアメリカ、韓国、台湾などのものある。そうした半券を改めて見直してみると、あの試合はどうだった、ああだった、記憶が定かでないときはスコアを引っ張り出して確認したりもする。その日に食べた弁当、飲んだビールの銘柄まで鮮やかによみがえってくる。もちろんあのホームランバッターや、剛球投手たちの姿も。

ひょっとしたらプロ野球チケットの半券から、懐かしい80~00年代のプロ野球を振り返ることができるのではないか? そうして本稿を書くことを思いついた。意識してコレクションしたものではなく、結果的にたまったものだから、大して価値のあるものはないが、少しは珍しくなったかもしれない半券をとっかかりに往時のプロ野球を振り返ってみたい。

『プロ野球オープン戦 横浜大洋対西武 1987年4月3日 横浜スタジアム』 前年デビューの清原和博見たさで行ったオープン戦。交流戦のない時代、横浜で西武を見る機会は貴重だった。

『プロ野球セ・リーグ公式戦 横浜大洋対中日 1987年4月25日 横浜スタジアム』半日授業の土曜日、友人と見に行った外野席のチケット。常備券に日付と開始時間がハンコで押されている。

『プロ野球セ・リーグ公式戦 横浜大洋対中日 1987年5月16日 横浜スタジアム』当時、マリンシートといわれていたシーズン席、現在の内野指定席FB。近所にある「YRC横須賀流通センター」の抽選であたった。

プロ野球チケットの半券には大別すると球場発券のものと、それ以外のものがある。球場発券のものは球場ごと、チームごとに専用の用紙が用意されていたりして、他のスポーツやコンサート、舞台でも同じ用紙を使うコンビニ発券などと比べてコレクションのし甲斐がある。球場発券のチケットには、そのシーズンの、そのチームの顔がプリントされていることが多い。

1987年の横浜スタジアム、大洋のチケットは古葉竹識監督とエースの遠藤一彦だった。当時の大洋といえばBクラスが定位置。ヤクルトとどちらが最下位になるか、という感じの弱小球団だった。その大洋がこの年、監督に招へいしたのが古葉だった。古葉は広島を4度リーグ優勝に導き、1985年に勇退したが、2年ぶりの現場復帰だった。赤ヘル黄金時代を築いた「あの」古葉が大洋の監督になる。今に例えるなら、原辰徳がDeNAの監督になるくらいの衝撃度があった。大洋球団としてはチケットにプリントするくらいの高い期待があり、まさにチームの顔と考えていたのだろう。

笑顔の古葉の横にプリントされているのはエースの遠藤一彦。これは納得の人選だ。前年は13勝をあげ、5年連続の二桁勝利。リーグ最多の233回を投げて、こちらもリーグ最多の185三振を奪った。クロマティから見逃しで3球三振を奪い、バースに「あの長い脚を見たくない」と言わせた。フォークボールを武器に長身から投げ下ろすフォームが美しい、マリンブルーのユニフォームがよく似合う、都会的で華のあるピッチャーだった。

この頃の大洋の「スター」といえば、野手は山下大輔、田代富雄といったところが現役晩年を迎えており、スーパーカートリオの高木豊はいたが、遠藤は格が違った。あの古葉が指揮を執る、リーグを代表するエース・遠藤は全盛期。今年の大洋はやるかもしれない、というシーズン開幕前の雰囲気がこのチケットから漂ってくる。

しかし、結果は5位。遠藤は期待通りの活躍で最多勝争いに絡んだが、シーズン最終盤にゲームでの走塁中にアキレス腱を断裂するアクシデント。14勝をあげたものの、絶対的なエースとしての活躍はこの年が最後となった。ただでさえ弱小投手陣であるにも関わらず遠藤を欠くことになった古葉采配は翌年以降、苦戦を強いられた。1988年5位、1989年最下位。5年契約を待たず古葉はチームを去ることになる。

(「プロ野球半券ノスタルジア」石川哲也 )